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カレン素数の日記

1000文字程度の文章をぼちぼち更新しています。暇つぶしの読み物にどうぞ

厳しい校則が何を生み出すのか

散々このブログでは通っていた高校への愚痴を書き連ねている。私にとってはあの環境は息苦しかったし、遅刻欠席早退課題未提出なんぞなんやと散々怒られた記憶ばかりある。

それでも、それなりには、高校ではのびのびとそこそこの自由を持って育ったとは思う。どれだけやらかしても、友達はいたし、先生にも特別嫌われるなんてことはなかったし、いじめなんて見たことも聞いたこともなかった。私は「変わってるよね」というていでどうにかこうにか受け入れられていた。だから卒業した今、このように自由を満喫して生きていけるのである。

 

名前は出さないけれど、地元の別の高校ではもっともっと厳しい話をよく聞いた。スマホの持ち込み禁止だとか眉毛剃っちゃだめとか前髪があーだこうだとかの校則のある高校もあった。そしてそこに通う学生はその訳の分からん校則を「当たり前」だと思っていた。もちろん理不尽であるとは思っていたけれど、従うのが当然、だったのである。

普通に考えてみたら人権侵害だ。校則を破って怒られたところで、例えば髪を伸ばすことは別に法に反する犯罪じゃないし、犯罪予備軍でもなんでもない。かすりもしない。法律でもないし、法律にも勿論「校則を破ったら犯罪」なんてことは一切ない。

 

そしてこういう厳しい校則の学校において、最もしんどいのは「生徒の意識」である。校則の厳しい環境で育った生徒達は、校則の不鮮明さに気が付かない。心の中で、意味わからんな、って思っていても、教師の前で口には出さない。行動にも起こさない。むしろそれどころか校則を破って前髪を伸ばしている子を見て、嫌悪する。「外れた子」として認識するのである。校則に従っている私たちは正しくて、あの子は間違っている、と本気で、思うのだ。大半がそう思えば、思っていない生徒だってわざわざ「外れた子」にはなりたがらない。

こうしてどんどん「校則」の持つ権威が大きくなっていくのである。

 

もし私が、そういう厳しい高校に通っていたら今の私のような人間にはなっていない。確信を持って言える。もっともっともっと社会に適合できない人間になっていたと思う。

多分そんな環境では息苦しいどころか窒息死である。生きていけたかも怪しい。不登校になる。人間としての魅力なんてなくなって、さっぱり自分に自信の無い人になっていた。ニートまっしぐらだ。

 

そして何よりの皮肉は、その厳しい校則のある高校の生徒の大半は卒業後就職するということだろう。そこの先生たちが言うのは「就活で恥ずかしくない格好」「就職して社会人としての当たり前」みたいな理念である。

眉毛ボサボサ、前髪は眉上でぶつ切りが恥ずかしくない格好なのか???????

と、まあ思ってしまうものである。

 

大学の友人でも、非常に厳しい校則の学校に通っていた子がいる。彼女はバレー部だったのだが、同級のバレー部員で休みの日にゲーセンでプリクラを撮っていたら先生に出くわし、怒られてそのあとの試合に全員出られなくなったらしい。

正直、意味がわからない。その学校ではゲーセンに行くのが禁止だったようだが、その校則も一体全体何をみて禁止と言っているのか。しかも罰まであるときた。人権侵害も甚だしい。

そしてこれもまた本人達は、こんなの間違っている、と声をあげなかった。校則を破った私たちが悪いから、と落ち着いたらしい。ここまで来れば校則もご立派な洗脳である。

 

視野も思考も狭めて育てる、それになんの意味があるのだろう。ぎゅうぎゅうに押さえつけたほうがその一時は管理できて楽かもしれない。でも、生徒一人一人にその子らしさがあって、卒業後もみんな人生は続いていく。その続く中で、誰か一人でも、「高校時代」が重石になることはあってはならないと思う。

高校生にとって、身の回りにいる大人、というのは親と教師である。そして高校生の持つ居場所で多くを占めるのが学校である。学校の与える影響はとても大きい。そこで得た考え方や自意識なんかはそのあともずっとずっと影響し続ける。意味不明な校則なんかで縛られていいものではないのである。