最高に美味しいレモンタルトのレシピ
自粛ムードになりまして、あちこちで可愛い女がこれまた可愛らしいクッキーを焼いてインスタグラムに載せていますね。
最近はダルゴナコーヒーが流行ってるようで、この間ストーリーをびゃんびゃんめくっていたら3連続でダルゴナコーヒーが白い背景とセットで出てきました。
タピオカが流行ったのは「ピ」が可愛いからであって、ダビオガだったら流行ってない説を声高に唱えていた私としては、「ダルゴナ」なんて濁点まみれの代物が流行るとは思ってもみませんでした。
さて、私はというとレモンの消費に迫られ、レモンタルトを作っておりました。
めちゃめちゃ美味しくできたので私自身のメモ用と、作ってくれる方がいたら嬉しいなと思ってレシピを書くことにします。
<タルト生地>
無塩バター 40g
マーガリン(無塩バターでも◎)10g
粉糖(砂糖でも◎)35g
全卵25g
薄力粉120g
バターと卵は常温に戻しておく
1.バターとマーガリンと砂糖混ぜる
2.卵ちょっとずつ入れて混ぜる
3.薄力粉入れて混ぜて頑張ってまとめる
4.ラップに包んで寝かせる 30分以上
5.タルト型にバター塗って薄力粉まぶす(分量外)
(このタイミングでオーブン180℃に予熱スタート)
6.生地を伸ばして型に置いて整える
7.底にフォークで穴を開ける
8.重しを乗せて180℃で20分くらい焼く
生地寝かせるのは、水分を均一にするためと、グルテンを弱らせることが理由なので、出来れば1時間、前日の夜に作って1晩寝かせるほうがいいかと思います。
5番のタルト型にバター塗って薄力粉まぶしたのは、私の持ってるタルト型は底が取れないものなので綺麗に取れるか心配になったのでしただけです。
あとタルト生地をタルト型に入れて整えるのに時間がかかってしまったら、1度冷蔵庫に入れましょう。冷え冷えの状態でオーブンに入れるのが重要です。
重しはタルトストーンってのがあるのですが、勿論の事ながら持っておりませんので生米を代わりに使用しました。ちゃんとクッキングペーパー引いてね。
<レモンタルト>
レモン1個
無塩バター30g
砂糖50g
薄力粉大さじ1
卵黄1個分
全卵1個
○メレンゲ
卵白2個分
砂糖50g
タルトの底のフォークで開けた穴を薄力粉等で埋めておく
レモンの皮の表面を削って、果汁を絞る
1.レモンの皮と果汁とバターを鍋に入れて煮溶かす
2.ボウルに砂糖と薄力粉混ぜて、卵黄、全卵を入れて混ぜる
3.ボウルのやつ鍋に入れる
4.とろっとしてきたら火をとめてタルト型に入れる
○メレンゲ
1.オーブンを200℃に予熱
2.卵白と砂糖でメレンゲ作る。そこそこしっかりめに。
3.角を立てるように盛ったら200℃のオーブンで7分くらい焼いて色を付ける
レモンカードの部分はめちゃめちゃ簡単だし、これだけ作って食パンとかに乗せて食べても美味しいと思います。
あとメレンゲ乗せるの、私は口金を持ってなかったのでゴムベラでテキトーにしたけど、絞り袋と口金があればそれで載せた方が見た目がいいかもしれません。
バーナーがあったら、メレンゲ部分に焼き色つけるのはバーナーでしても◎
そしてこのレシピ、卵が変な量残ります。全卵の半分くらいと卵黄が1個。これに牛乳とチーズを入れて混ぜたのを、バター溶かしたフライパンに入れてぐるぐる回します。スクランブルエッグが出来ます。
最後に、美味しく作るコツです。
それは、美味しい国産レモンを使うことです。
猫は人ではなく家につく
私は大学にも行かず、バイトもせず、毎日毎日、来る日も来る日も家に引きこもって生活している。
この生活でひとつ、大きな変化があった。
猫が私になついたのである。
今年で8歳になるうちの猫は、今まで私と床の区別がついておらず、寝転んでいたら踏んでいくのは当たり前、尻だろうが背中だろうがあちこち噛み付くといった具合で、嫌われてるとは言えずとも好かれてはいなかった。
それがどうしたことだろう。引きこもり生活を始めるとすっかり私になつき、他の家族がいても私の膝の上で丸くなり、私に撫でてもらいたくて甘えた声で鳴き、私のベッドで一緒に寝る。私の両親が名前を呼んでも振り向きもしないが私が呼ぶと、とてとてと可愛い足音を立てて近付いてくる。
ついこの間まで考えられなかったことが次々と起こっているのだ。
引きこもり生活を始める以前は、猫は母に非常になついていた。私に抱っこされると体をぐねんぐねんさせて逃げ出していたが、母に抱っこされるとじっとおとなしくしていた。寝る時も母と一緒で、お昼寝も母のそばだった。
最近はというと、母に抱き締められると逃げ出し、全身を毛繕いするようになった。母は私に嫌味を言うようになった。
私が大学やバイトに行っていた頃は、家族の中で家にいる時間が最も長いのは母だった。
それが私の引きこもり生活によって、圧倒的に私が家にいる時間が長く断然のトップに躍り出たわけである。
猫がなつく人間を変えたのは、どう考えてもこの「時間の差」であると思う。
「猫は家につく」とはよく言ったもので、まさにその通りのことが起こっているようだ。彼にとっては引きこもりの私はほぼほぼ家と同じようなものなのだろう。
自粛ムードを楽しく自己中に生きる
コロナウイルスの影響で、バイト先は潰れ、大学もキャンパス内立ち入り禁止、不要不急の外出自粛。
多くの人が家に引きこもる生活をしていることと思う。
アウトドア的な人間たちよ、生きていますか?
私はインドアな人間で、不謹慎かもしれないが今の生活を有意義に楽しく暮らしている。
学校からも、労働からも解放され、好きな時間に起きて、好きなことをして、好きな時間に寝る。この生活がどれほど恋しかったか。老人にならないと叶わない夢だと思っていた。
今までの生活って常に何かに縛られていて追いかけられていたんだな、と強く実感する。
この引きこもり生活を楽しく生きる術で最も重要なのは「1人で完結する趣味」、ここにある。
お友達とお喋りしないと死んじゃう皆さんにはこの自粛ムードはつらいでしょう。まあ電話とかしてるんでしょうけどね。私なんて誰一人電話とかかかってこないからね。ほんとに。LINEもめったに来ないし。
私は一人っ子なのも影響して、ひとり遊びの得意な子供だった。頭の中がお花畑の不思議ちゃんだったので、頭の中で自問自答のようなことを繰り返し、知っている物語を述べさせたり、映像を再生させたり、そんなことばかりしていた。
そんな子供が歳を食うと、金を得て知識を得てよりタチの悪い人間になる。
自己中が自己中をこじらせ、その上この自粛ムード。自己中を高めて然るべき展開となった。
さて、1人で完結する趣味を持たず、アウトドアな人間で、他人とのお喋りで生活していた方々よ。今の自粛ムードに苦しめられていることだろう。
もちろん上記に当てはまらずとも、今の生活の「怠惰さ」「無意味さ」に苦しんでいる人は多いのではないだろうか。
そういった喪失感、焦燥感を抱えているまま生活していると本当に鬱になるから気をつけてね。寝たいのに寝付けなかったり、寝る前や起きた時に動悸がしたりするようになればマジのヤバい合図です。
一部の元々怠惰な人間には信じられないかもしれないし、「怠惰な人間である」と思っていた人も実はそうではない場合があるのだけれど、「何もしない」ということはストレスになり得る。
幸い、SNSの発達した世の中である。ご友人とお話あそばせ。
ただ、ストレス解消のために自傷行為はオススメしない。自傷行為に繋がるようなこともダメだ。ピアス開けまくったりとか、そういう「痛み」を伴うのはあんまりよろしくない。痛みはストレスを忘れさせてくれるだけで解消にはならないからだ。
痛みを感じたいドMの方は筋トレでもどうぞ。
さて私はというと、毎日お昼に起きて、マンガを読み、お菓子を作り、それを食べ、学業の真似事をして、縫い物やお絵描きを楽しみ、インターネットを徘徊し、本を読み、そして夕飯時は家族の飯を作り、4時頃まで本を読んだり映画を見たりTwitter見たり。
基本的にはこういった生活を繰り返している。なんて素晴らしいんだろう。私のユートピアは私の家にあったのだ。毎日寝る前に明日したいことを考えて、お菓子のレシピを考えたり読む本を考えたり、そして起きるべき定められた時間もなく寝る。
まあこの生活の基礎として、実家住まいっていうのはかなり大きいけどね。あとは適度な貯金。金がないとなにも始まらないから。
そして私は本棚を眺めるだけで2時間潰してしまうような人間なので、考え事する時間が限りなくあることにとても幸せを感じている。
今までの「普段通りの生活」は様々なことに縛られていて、私は不自由だったのかもしれない。もちろん、この自粛ムードによる不自由も発生していることには気が付いている。
でも、避けようもないならば、捉え方を変えるべきだ。
かつての不自由は今の自由で、今の不自由はかつての自由である。ならば前者に目を付けて、そこが伸び代だ。時間は有り余っている。
今出来ることを、今しか出来ない生活を今のうちに楽しもう。
コロナにはお気を付けて。
サイバーパンクについて
サイバーパンクとは1980年代後半から90年代初めにかけて流行ったSFのサブジャンルのことである。あくまでSF全体における、その中での傾向のことではあるが、特にサイバーパンク小説に関して書く。
82年頃に、SF界に「ファンタジー汚染論」が流れる。これはチャールズ・プラット、グレゴリイ・ベンフォードらが当時のSF界を憂い、批判的に展開したものである。
彼らは、70年代後半に流行っていたSF小説は見かけだけのSF、取ってつけたような「科学」でしかなく、実際には読者の願望充足のためのファンタジー小説でサイエンス・フィクションではなく「サイエンス・ファンタジー」である、と批判した。
ちなみに、1977年にスターウォーズの第1作ep4が公開されている。スペースオペラの台頭、大衆のSFへの興味、人気が盛り上がったのは推測するまでもないだろう。
そうした時代に、サイバーパンクは生まれる。
これまでのSF界、先に挙げたサイエンス・ファンタジーへの反発から、超現実的な科学・人間の心理に重きを置いた作品が主で、退廃的であったり社会への反骨精神を顕にするような、つまり「パンク」なSFである。
サイバーパンクで舞台となるのはテクノロジーが過剰に発達した社会で、例えば人間の腕に機械が埋め込まれていたりだとか、電子空間だとか。
ちなみにサイバーパンクの中で更に分類することも可能で、蒸気機関が発達した社会を底においたのがスチームパンク、電子機器の発達であればエレクトリックパンクと呼ばれる。
初のサイバーパンク小説とされているのが、1984年に発刊された「ドクター・アダー」。作者のk.w.ジーターはかのフィリップ・K・ディックに影響を受けたとされている。
フィリップ・K・ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」(1968)も電子空間世界の表現から、サイバーパンクの先駆け、起源とする声も多い。これの映画化「ブレードランナー」(1982)ではまさに、サイバーパンク的な退廃的近未来社会を描いている。
また、1984年にはウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」が発売される。時代を変えた、SF界稀代の名作と言えよう。
また、この頃日本や中東を背景にしたSF小説が多く生まれる。ニューロマンサーの冒頭も千葉県が舞台だ。
エキゾチックさを売りにしたものだろうが、日本人である私が読むとちょっぴり不思議な気分になる。
ウィリアム・ギブスン、k.w.ジーター、またサイバーパンク的態度の創始者とされるジョン・シャーリー、あとはブルース・スターリングにパット・キャディガン、ルイス・シャイナー、トム・マドックス、この辺りがサイバーパンク軍団と言えるだろう。
ルイス・シャイナーはちょっと違うけどブルース・スターリングの友達で、かつ支持者であるのでサイバーパンク軍団として入れられることが多い。
あとパット・キャディガンはホラーなSFを書いていたが、サイバーパンク時代が終わると完全にホラーにシフトしていく。
さて、ここでサイバーパンク運動の流れを書いていく。
サイバーパンク軍団の1人であるブルーススターリングが、自身の雑誌「チープ・トルース」において他のサイバーパンク的でない作家・作品を批判したことで、SF界に大きな亀裂が生まれる。サイバーパンクか、そうじゃないかの分裂だ。
あとになって、SF評論家たちは彼のこの行動こそがSF界の成長の邪魔をしたと批判した。
実際、革命的に始まったサイバーパンク運動は結末としてはあっけなく、革命とは言えない。サイバーパンク運動の終わりは先に書いたように90年代初め。この頃には大衆に携帯電話やパソコンが普及し、サイバーパンクが近未来ではなく、現実的になりすぎてしまった。ここからサイバーパンクは後退していく。
(でも2020年現在、未だに当時のサイバーパンク小説に追いついてなくない?)
さて、現在「サイバーパンク」は存在するのか。
答えは、私個人としては、否。
サイバーパンクとはそもそも、80年代に定義されたものである。その定義を当てはめるならば今現在「サイバーパンク」を歌う作品はあくまでサイバーパンク「風」と言わざるを得ない。
サイバーパンクが廃れた理由も、結局はそのサブジャンルを分ける必要がなくなったということにあるため、まあ、分けなくていいんじゃない?というのが私の思いである。個人的なね。
話があっちに行ったりこっちに来たり、本当はもっとサイバーパンクの内容にも触れたいけどこのくらいにしよう。歴史的な面に関しては随時追記していく。多分。間違ってたらごめんなさい。私まだこの時代ぜーーーんぜん生まれてないんです。あと私はブルーススターリングが好き。
忘れ物まみれの自分への対策
私はよく忘れ物をする。
その日使う授業のレジュメ、教科書にペンケース。そして1週間に1度はイヤホンを忘れる。これが意外と痛い忘れ物。
本当に酷いのは財布、スマホ、定期。絶対に忘れてはいけない3点セット。めちゃめちゃ困る。とても不便。
ここでは、「なぜ」忘れ物してしまうのか、ではなく、忘れ物をしてしまった場合、「どう切り抜けるか」に重きを置く。
よく、義務教育時代は「なぜ」を考えて、次回に活かせなどと言われるけれど、私はこれを正しいとは思わない。「なんで出来ないんだろう」「なんでみんなはできるのに、」というネガティブな思考に直結するからだ。
「なぜ」を考えることが重要である場面もあるかもしれないけれど、忘れ物においては正しくない。忘れ物はしてしまう、ならばその上でどうするか。これを考えるべきなのである。
私が忘れ物が多いのは小さい頃からだ。そのため、自分の注意力を一切信用していない。「自分は忘れ物をする人間である」ということを常に前提に置く。これが1番の対策である。
高校生の時は教科書をほとんど机に押し込んだまま毎日帰宅していた。いわゆる置き勉である。教科書を忘れないためにはこれが1番だ。
しかし、大学生となるとそういうわけにもいかない。私の通っている大学は個人ロッカーの類は全くなく、「置いて帰る」という力技が通用しない。
まあここで1度楽観的になってみよう。
教科書やレジュメくらい、忘れたって平気である。なんとかなるなる。ペンケースを忘れても、近くの席の人に借りればいいじゃないか。
はい、これで一件落着である。忘れ物をしてしまうのは仕方の無いことなのだ。ちゃんとしてる人だってたま〜に何か忘れることだってある。自分がダメなんじゃない。そういうものだから。
ただし、こう楽観的にいかない場合がある。
先にあげた、「財布、スマホ、定期」の3つだ。
まだ定期はいい。金を払えば学校にはいける。損しちゃったな、程度のことだ。まあ私は定期忘れたらその日は自主休講するけれど。
次に財布だ。遊びに行く時は忘れないけど、学校、バイトに行く時はしょっちゅう忘れる。お金を使わないならいいけれど、駐輪場に停めた自分の自転車は救出できなくなる。
でもまあ、その程度の金なら借りたら良くない?????誰かいるでしょ!友達の1人や2人!
って、楽観的な見方をするけど、マジのマジでどうにもならない時が稀にある。そういう時のために、いつも持ち歩く黒猫のもふもふポーチに、家の鍵とモバイルバッテリーに加えてSuicaのカードを入れている。仮に財布を忘れても、このポーチさえ持っていたらSuicaで大抵の支払いはできる。
しかし!私は馬鹿なのでSuicaに金が入ってない!!!!!!!
じゃあこの説明なんなの?と思うかもしれないけれど、Suicaはデポジットの払い戻しが可能である。つまりいざとなれば、返却してしまえばデポジット分の500円が手に入る。自転車は取り出せるし、そこそこなら最寄り駅に帰れるし、そこそこの食べ物、飲み物なら買えるお金だ。
ただし!!!
私を舐めてはいけない。私は財布を忘れる上にそのポーチさえも忘れるのである。バッグになんも入っちゃいない。
上にあげたように本当に酷い時はこれに加えてスマホを忘れるのである。なんちゃらpayなんて使えないのだ。
もうなんのためにバッグ持ってんの?逆になにが入っているの?
さすがに私だって空っぽのバッグは持ち歩かない。ないないづくしでもバッグに大抵入ってるのは、化粧ポーチである。
私は化粧ポーチに化粧品だけでなく、五百円玉とミンティアとアメちゃんを入れている。最低限のお金と最低限空腹を紛らわせられるもの。
忘れ物をしちゃう人間なら、事前に忘れ物をする前提で準備をしよう。どうやって気を付けよう、と考える前にまずは「自分は忘れ物をする」と受け入れること。そしたら出先で忘れ物に気付いても無駄な抵抗をせず、心を落ち着かせて、その上でどうするのが最善かを考えられる。
事前の準備としてはとにかく、「分けて持つ」ということ。特にお金。なにもかもお金が大事。なんなら持ってるバッグ全部のポケットに五百円玉を入れておこう。これだけで大抵のことはなんとかなる。プレゼンの資料とかもUSBだけじゃなくて色んなとこに送ろう。私はGmailの下書きに入れてる。パソコンは借りればいいし、ログインしちゃえばこっちのもんよ。
最後に。
心の持ちようがなにより重要。落ち込まないこと。楽観的になること。後悔しないこと。そもそも自分という人間性を理解して受け入れること。
忘れ物しちゃうのって、しょうもないことに思えるかもしれないけど、何度も何度も続くといい加減病む。私は頭がおかしいんじゃないか?ってなる。今ADHDとかの認知は広がってるし、私みたいな人は多いと思う。なんか生きづらい人たち。楽観的に生きていこうね。自分はダメじゃない。
イエベブルベ問題と見解
メイクする人には定番の論争、イエベブルベ問題。
一応説明しておくと、イエベっていうのはイエローベース(黄色味のある色)、ブルベがブルーベース(青味のある色)の略で、パーソナルカラー判断のひとつ。肌、目、髪の色に似合うカラーのこと。
イエベの人は金色が似合うし、ブルベの人は銀が似合う。手首の血管の色が緑ならイエベ、青ならブルベ。日焼けして黒くなる人がイエベ、赤くなる人がブルベ。
参考画像
美容垢なんかだと基本的にブルベの大勝利とされている。ブルベが色白でイエベが色黒っていうのが定番だからだ。しかしイコールではない。松崎しげるはあの黒さでブルベだし、ウエンツはあの白さでイエベである。
なぜメイクをするにあたって、イエベブルベ問題が発生するのか。それは、「自分に似合う色」を見極めたいからである。
一般的に青みの強いピンクや紫なんかはイエベには似合わず、ブルベに似合う。オレンジやテラコッタはブルベに似合わず、イエベに似合う。つまり自分の本来の肌の色に合わせて、アイシャドウやチークを買い揃えようじゃないかと、そういう話である。
さて、ここから本題だ。イエベブルベ問題についての私個人の見解である。
私は自分がイエベかブルベかわからない。自分ではずっとイエベだと思っているけれど、人にはよくブルベだと言われるし、本業としてメイクを仕事にしている人にもブルベだね、と言われたことがある。
よくわからないので、化粧品はとにかく気に入った色を買っている。アイシャドウはオレンジも使うし紫も使うし青みのピンクも使うし、カーキも持ってる。紺色のアイライナーもバーガンディのアイライナーも使っている。リップも赤紫もあれば茶色もあるしピンクもある。
という訳で、私はこのイエベブルベ問題について懐疑的だ。そもそも問題なのか?という話である。
全人類、好きな色で塗りたくればよくない???????????
似合う似合わない、っていう色は勿論存在すると思う。しかしそれをイエベブルベ問題に責任転嫁しているだけではないだろうか。本当に全人類をその2種類に分けることが可能だろうか。似合う色似合わない色がなんとな〜〜〜〜く2種類に分けられてるような気になっているだけじゃないのか。
どこかの誰かにイエベって判断されたから、初めてオレンジのシャドウ使ってみました、イエベだから似合ってるし、自信がつきました、可愛くなりました、みたいなのはいいと思う。
でも、紫が好きなのに「私イエベだから……」つって挑戦もせず、なんとなく茶色のシャドウで誤魔化してるのは勿体ないと思う。紫にも色んな紫があるし、意外と似合う可能性もある。自分以外の誰かさんに見極めてもらった顔の色味がそんなに重要か?「好きな色かつ似合う色」の化粧品を見つけて行こうよ。探しに行こうよ。いっそ作っちゃえよ。
イエベブルベ問題によって、自らの幅を狭めてしまうのは本当にめちゃめちゃ勿体ない。
結局人間は自分以外の客観的な根拠が欲しいのである。その根拠となるものにイエベブルベを持ってくるのは間違いではないが正解とも言えない。イエベブルベとかいうもっともらしい理由をつけて自分を安心させたいだけなんじゃないだろうか。
似たような問題で、体型をタイプごとに分けるやつも気に入らない。ストレートとウェーブとナチュラル?日本人だけでも1億人存在してるのにたった3タイプに分けられる筈がない。参考にはなれど、それが自分の着る服を定められる理由にはならない。
本当に自分が好きな色は?本当に自分が着たい服は?
忘れてしまってはいけない。
TPOには合わせても、他人の適当な見定めなんかには合わせるな。好きな物に、自分が似合うよう努力をしよう。
少女少年であった人へ
印象に残っている小説がある。
海外作家の作品を集めた短編集の中のある一編だ。
高校の図書室でたまたま見つけた。海外作品なのになぜだか宮沢賢治の横に置いてあった。誰もここ数年触っていないらしく、随分ホコリに被っていた。
その本はもう絶版で、新品で手に入れるのは非常に難しいだろう。Amazonでもプレミアがついていた。
タイトルは「昨日のように遠い日」。そして「少女少年小説」とタイトルの横に小さく印字されている。しかしいわゆる少年小説、少女小説とは全く違うお話ばかりだ。
その中に、「修道者」と付けられたマリリンマクラフリンの短編がある。彼女の作品で日本語に翻訳されているのはこの一遍のみ。しかし翻訳されていない作品も、この短編とは雰囲気がかなり違う絵本ばかりで、「少女少年小説」と呼ぶのにふさわしいとは言えない。
主人公は大人になることに拒否反応を示す女の子。ご飯を食べず、ガリガリにやせ細っている。「もうちょっと軽くなったら空を飛べる」と彼女は言う。お洒落なお洋服を着ることも拒み、「女性らしく」なることを非常に恐れていた。そんな彼女に両親やクラスメイトは腫れ物を扱うかのような態度を示す。見放された彼女はアイルランドに住む変わり者の祖母の所へ送られる。
ベリーと木の実をポケットに入れて、彼女は毎日海へ散歩に行く。田舎の祖母の元でゆっくりと、少しずつ変わっていく少女の心が、きめ細やかに新鮮に綴られているその短編は、私に衝撃を与えた。
表現は丁寧で、文化的で、原始的で、その女の子にも、読者にも真摯に向き合っていた。
この本を、この短編をとにかく他の誰かにも読んで欲しくて、手当り次第友人らに読ませたのを覚えている。
いつか古本が私のところに巡ってくるのを待っている。手元に欲しい本だからだ。
なんでこんなに素敵な本が絶版になってしまっているのかさっぱりわからない。人類の損失だと思う。
マリリンマクラフリン以外の短編もどれも素敵で、レベッカブラウンの「パン」というお話も最高だった。
女の子の世界の微妙な歪みを丁寧に描いていて、恋とか憧れとか、読んだ全ての人間はとりあえず顔を覆うと思う。恥ずかしさとエモさとみっともなさと彼女の純粋な心に打ちのめされるだろう。
あらすじを懇切丁寧に説明したいんだけど、それはとっても難しい。あの繊細さを表すことは私にはできない。
図書館に行ったらまだ存在しているだろう。
「少女少年小説」とは言うけれど、少年少女時代が遠い日になってしまった大人たちのための本だと思う。こんなに素敵な小説、もし少女時代に出会ってしまっていたら全部狂っていたかもしれない。