google9e72caac10953e45.html

カレン素数の日記

1000文字程度の文章をぼちぼち更新しています。暇つぶしの読み物にどうぞ

自分らしさとはなにか

よく、「個性がある」「感性が独特」「独自の世界観がある」といった言葉をかけられる。

しかし逆に、個性のない人間など存在するだろうか。私は18年生きてきて個性がない人間なんて見たことがない。なんか「個性」って言葉を使うとヒロアカみたいだから控えますね。

 

私の見た目はパッと見、真面目で大人しい女、に見えるらしい。

でも実際は真面目とは程遠い人間だし、大人しいかと言われると首をひねる。

 

高校時代、親と担任との三者懇談で、担任に「私はカレンさんの見た目に騙されたんです!!!こんな普通の女子高生みたいな見た目して!!」と言われた。

私としては、そんなの知ったこっちゃないわ、と鼻で笑う他ない。私の見た目も私の中身も、全ての権利は私にある。あなたの、私へのイメージが創造される前から元々私は存在しているのである。

 

通称「クズ部屋」と呼ばれる、課題をなかなか出さない生徒が放課後集められる教室があった。私はそこの常連だった。課題は出さんし遅刻はするしすぐ早退するし欠席するし、散々な生徒だった。それらの素行は何度4者面談をされても3年間変わらなかった。

でも、課題を出さないことで他の生徒に迷惑がかかるだろうか?課題を出す出さないは私の権利ではないのか。遅刻も、朝早く起きるのはどうにも苦手だし、1時間目の授業に興味がなければ出なかっただけである。早退はそのあとの授業が気に入らなかった時に帰っていただけだし、欠席する時は普通に体調を崩しかけていたからという理由がほとんどだ。体調を崩しかけている時に1日休んで元気になるのと、頑張って学校に通ってあとで熱を出して数日寝込むなら前者のほうが良いのではないだろうか。

ダメな生徒のレッテルを貼られていたが、自分を本当にダメな人間だとは思わない。私なりに、ちゃんとやっているつもりなのである。めちゃめちゃ社会不適合者のような考え方だが、今のところなんとかなっている。

 

三者懇談で担任はこうも言った。「カレンさんに日本の教育が追いついていないのです。」

 

認めてるじゃん、って思った。

真面目なナリの生徒がちょっと悪いことをしたらやたらに叱り、ヤンキーが猫を拾ったら褒めるという人間には、自分を認めて貰えるまで根気強く「自分」であることを押し通せばいいのである。

それを押し通せないのならあなたはそこまで自分を強く保とうとしない人間性を持っているのだ。悪いことでは全くない。それはそれで「らしさ」なのである。優しい人だと思う。

 

「自分らしさ」とはなんだろう。

私が私であれば、全て「私らしさ」だと思う。ただ、私以外の人間がつくる「カレンらしさ」は私らしさとは話が別だ。

私が、誰かの思っている「らしさ」から外れた行動をしようが、言葉を吐こうが、それは全て私の意思で私の身体によるものであるのに、「あなたらしくない」なんて言われる筋合いはない。

他人のことを気にしない、ということではない。私の、他人へ対する気遣いも尊敬も愛も、全て同じ「私」から発生しているものだ。

私を動かすのは全部私。私の言動は全て「私らしさ」という言葉に集約されるべきである。

 

私は常にできるだけ自己中心的でありたいと思っている。

物事が自分にとってマイナスで、かつ将来性もないと思ったら容赦なく切り捨てていく。私を一番に守れるのは「私自身の決断」である。

自己中心的、と表現したがつまり、私は自分の意思に忠実でいたいのだ。

 

これまでもずっと私は私らしく歩んできた。全て間違いではないと確信している。社会的にはフワフワ所在なく生きてるように見えるかもしれないけれど、これからもずっと私は私のまま生きていく。