google9e72caac10953e45.html

カレン素数の日記

1000文字程度の文章をぼちぼち更新しています。暇つぶしの読み物にどうぞ

ギレイテキムカンシン

儀礼的無関心

この言葉に見覚え、聞き覚えはあるだろうか。

 

大学で社会学なる授業を取って、そこで初めて聞いた言葉だ。

社会学」という分野がそもそもはじめましてなのだが、講義を受けてすっごく好きになった。私が今まで心のうちに抱いていた社会へ対する疑問とか、考え、思い、そういった抽象的で個人的だったモノが、「社会学」では言葉が定義されていた。私がぐるぐるもやもや考えていた物事にちゃんとした名前がついて、定義付けられていて、すっきりした。

 

儀礼的無関心

特にこの言葉は本当にしっくりきた。

例えば電車なんかで、混んでいる時だと知らない人とありえないくらい密着したりする。座っていたら隣の知らない人がもたれかかってくる。親しい人でもなかったら普通そんな距離感にならないし、そうやってめちゃめちゃ密着したとしてもその人と親しくなることはない。ありえない密着度でも、それぞれ個々でいて、体はひっついていても心は全く遠い。関心を向けてない。そういうのを「儀礼的無関心」と呼ぶ。

礼としての無関心、である。言い得て妙というやつでしっくりくる。

 

たしかに、満員電車で密着してる隣の人が私にめちゃめちゃ興味を抱いてたらキモチワルイ。

逆に、普通に道で満員電車のあの距離感で密着して、「別にあなたに関心なんてないです」という態度だとそれはそれであまりにおかしい。

 

「パーソナルスペース」という概念がある。個人がもつ、入ってきてほしくない距離感のことで、相手によってその距離感は変わる。

私は親しくない人に対しては特に、パーソナルスペースが広い。できる限り近くに来てほしくないと思っている。

そこそこ親しい人でも適度に距離感がほしい。別にその距離は心の距離ではなくて、物理的な距離のことだ。

こういう考え方の私には、電車はとてもハードだ。座っても、知らない人と腕が当たるか当たらないかの距離にいなければならない。立っていたら後ろも両隣も人と当たる。ドア付近にいたら全方位人まみれである。

電車通学を始めて最初の頃は本当に吐き気に悩まされていた。今でこそやっとそこまで体調を悪くすることはなくなったが、三ノ宮まで行けずに明石や神戸で降りてしまうことが多々あった。朝一番にひとりぼっちで知らない人と密着しなければいけないのは未だに慣れない。

友人と一緒だと、知らない人と密着していてもそんなに気にならない。本当は行きも帰りも友人と一緒に行けたらいいのだけれど、友人と電車に乗ることは週に数回しかない。

 

多分私は「儀礼的無関心」をすることが苦手なのだと思う。「知らない人と真横にいる」ことですら苦手なのだ。なんと電車通学に向かない性格だろうか。

 

講義を受けるまで、日々の通学で感じるキモチワルサを言葉にできないで、ずっと心でもやもやと1人で考えていた。

社会学の講義を受けたところで、相変わらず私のパーソナルスペースは広いし電車は苦手だけど、苦手である理由に関して言葉がしっかりあって説明されてあることだけで、ずいぶん心が楽である。やっぱり大学の講義というのはいいものでもあるなあと思う。単位ください。