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カレン素数の日記

1000文字程度の文章をぼちぼち更新しています。暇つぶしの読み物にどうぞ

読書は人生に必要じゃない

なにをどう血迷ったのか、私は大学で司書資格の取得を目指す司書課程の授業を取った。あたりは文学部の女の子まみれ。私以外の大体は多少顔見知り。私だけバカみたいな金髪。私だけ経営学部。

 

せっかく大学生で暇してて、いつでも勉強できる環境にいるわけである。なにか資格でも取るか〜と思った次第で、目に付いて興味を持ったのが司書だった。蓋を開けてみると、なんともまあ大量の授業、授業、授業。しかも卒業単位にならない。知り合いの司書資格を持ってる高校教師に愚痴ったら、司書課程はそんなもんよ、と言われてしまった。履修登録の前に聞きたかった。まあでも、資格なんて持ってて損があるものではない。取れるもんなら取っておけばいいじゃないか、という気持ちで毎日講義を受けている。今のところ1度も休んでいない!偉い!まだ4月!

 

さて、そういうわけで「社会一般の持つ読書への意識」なるものを考え始めた。

私はなかなかの活字中毒で、小さい時からずっとずっと本を読み続けている。小学生の時は、友人でも同じように本好きの子が多くいて、趣味は読書、が女子の4割は定番だった。でも、中学、高校、となってくるとそういう本好きの子は随分減った。みんな口を揃えて「読む時間がない」と言っていた。当の私も確かに、小学生のころに比べたら読書の時間は減っていて、でもTwitterする時間はたくさん持っていた。

小学生の時分には娯楽の種類が少なくて、外で体を動かすことを好まない人種にとっては「読書」ぐらいが丁度いい娯楽だった。でも成長するにつれてそれ以外の娯楽にも目を向けるようになり、そして読書より楽に受容可能な娯楽へと移って行ったのである。

 

そしていつの間にか、「読書」という趣味は高潔で堅苦しいようなイメージがついていく。特に、小さい時も本を読んでいなかった人種による固定観念だ。「読書」はだんだん「勉強」のようになっていく。本を読む人は頭がいい?そんなことあるわけない。私を見てみろ。

 

「読書」というのは、娯楽のひとつである。趣味のひとつである。勉学に通ずるものがあるというだけで、それ自体は決して勉学ではない。本なんて読まなくったって、十分立派な人生が送れる。心身ともに健康なら、わざわざ本を読む必要はどこにもない。不健康だから読むのだ。自身の精神に欠陥があるから読むのだ。現実世界に居場所がないから読むのだ。自分の砦を保つために、本を読むのだ。

 

「読書」はほかの何かで代替がきく。人間が欲しがる刺激の絶対量みたいなものがあって、それを読書で埋めてもいい、というだけのことだ。映画を見ることで埋めてもいい、体を動かすことや恋愛とか友達とバカやるとかでもいい。そういう日常の中に潜むほんの小さな非日常を、私たちは潜在的に求めている。ただその絶対量が人より多かったり、読書でしか埋められない刺激だったり、ほかの刺激が圧倒的に少なくて足りなかったり、そういう人が本を読む。

 

「読書 効果」で検索してみると、語彙が増えるとか見える世界の広がりとか教養がどうのこうのとか色々出てきた。

確かに、一理はあるかもしれない。でも、それ自体人生に必要だろうか。語彙力がなくても生きていけるし見える世界が広がらなくても普通だし教養なんて他のことで補える。もちろん、あるに越したことはないけれど。

 

私が本から得たものはとても大きい。しかしそれは人生において何千時間だろうか。本にかけた時間は私の人生のとんでもない面積を取っているはずである。その時間を他のことにまわしていたら、また別のものから何かしら得たであろう。そして、その存在したかもしれない「本を読まなかった私」は今の私とは全くの別人だ。今の私を構成しているのは、今まで出会ってきた本たちがかなりの割合を占めているからである。

もしこの世のどこかに、私が今まで読んだ本全て、1つと欠けず1つと増えず、それらを私と同様に読んだ人間がいるならばその人と私はほぼほぼ同一人物といっても過言じゃないんじゃないだろうか。いやさすがに過言かもしれない。

 

読書は人生に必要じゃない、というのはあくまで、たくさんの本を読んで、本を読むのが好きで、きっとこれからも色んな本を読むであろう私が、言う言葉である。

生きるためには人生に必要なことだけしてたらいい、なんてことは多分、誰も考えていない。そんな退廃的に生きるなら死んでるのと一緒だ。今の日本は戦争もなくて特別貧乏ってわけでもなくて、色んな娯楽を楽しめる時代。みんなが好きな物を好きなように使って楽しめばいい。

最初から「意味」を求めて行う読書は、正直、個人的には、好かない。実用書とかは除いて。

「時間は有限だから意味のないことはしない」というのもご立派ではあるが、無意味な行動がのちのち、意味を持つようになることもある。

教養を身につけようと本を読んだって一朝一夕で身に付くもんじゃない。でも長年、ただ無意味に文学に触れている人はいつの間にか、教養が身に付いているだろう。

「意味があるから本を読む人」と「無意味に本を読んでいる人」には天と地ほどの差がある。どっちが天でどっちが地かはわからない。

 

ともかく「読書」とは、必要に迫られてするものではないのである。娯楽なのだから。