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カレン素数の日記

1000文字程度の文章をぼちぼち更新しています。暇つぶしの読み物にどうぞ

猫と経営学

皆さんは猫派だろうか、犬派だろうか。

ちなみに私は完全なる猫派である。

犬派猫派論争は長く続いている。私は今回、経営学というご立派な根拠を味方につけて、猫の優位性について書こうと思う。

 

街中には猫のモチーフのグッズが溢れている。猫が描かれた服や靴下、帽子。猫型のポーチ、イヤリングにピアス、はたまた「人生はニャンとかなる」といった猫に人語を喋らせた書籍まで。

実際、犬のモチーフのグッズの数と比べてみる。多種多様大量の商品を扱う100円均一DAISOの商品に限って、犬グッズと猫グッズを数えてみた。

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はい、一目瞭然である。猫のグッズは犬より多いのだ。

DAISOだけじゃ根拠不足かもしれない。ということで、犬猫のカレンダーの数でも比較してみよう。カレンダーといえば犬猫ディズニー。皆さんも自分の家や友達の家で犬か猫かディズニーかのカレンダーを必ず見た事があるはずだ。

写真・イラストは問わず、Amazonで出版されている犬カレンダー、猫カレンダーの数を比べてみる。

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はい、こちらも一目瞭然。猫のカレンダーの方が犬のカレンダーより商品数が多いことがわかる。

 

 

 

さて、猫グッズが犬グッズより多い訳を考えてみる。

1つ目は、猫のグッズのほうが作りやすい、という点だ。

まずこちらの画像を見てほしい。f:id:karentprime:20190910133742j:image

この8匹の猫ちゃんは、みんな輪郭、目、鼻、口、ヒゲは全て同じである。色と柄が違うだけで茶トラ、黒猫、三毛猫、と違う種類の猫ちゃんに見える。このようにひとつ型となるものを作れば、あとは色違い・柄違いでたくさんの種類の猫ちゃんを作ることができるのだ。

 

次にシルエットを見てみよう。

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街中で100人にこの画像を見せて「これはなんでしょう」と言えば確実に100人が「猫ちゃん」と答えるだろう。

つまりこのシルエットのままでグッズを作ることが可能である。実際、シルエットのウォールシールがDAISOでは売られている。(私の部屋にも貼ってある。)

 

以上のことから、猫のグッズは低コストで作ることができる、ということが分かる。つまり、供給が楽なのである。

 

 

 

次に2つ目、それは猫のグッズの方が売れることである。

これは、犬好きと猫好きの犬猫それぞれに対する捉え方の違いが関係している。

例えば、柴犬を飼っている人がトイプードルのグッズを購入するだろうか。f:id:karentprime:20190910135403j:image

どちらも「犬」という括りではあるが、あまりに見た目が違いすぎている。

しかし、猫だったらどうだろう。先に挙げた猫8匹のイラストのようにどんな猫ちゃんであれ、姿形はかなり似ている。

「犬種」という言葉はよく用いられるが、「猫種」という言葉は全く一般的ではない。猫は「種類」をあまり重視しないのである。

犬好きは「個」の犬が好きである場合が多い。それに対して猫好きは猫ちゃん「全体」が好きな場合が多いのである。実際猫派である私も、もちろん1番はうちで飼っているベンガルのてんくんが好きだけれど、持っているグッズは黒猫だったり、メインクーンだったりするし、野良猫だろうと血統書付きの猫ちゃんだろうとみんな可愛いと思っている。

 

 

根拠として、最初にグッズ数の比較をしたAmazonにあるカレンダーを、それぞれ種類別に見てみよう。

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犬のカレンダーは猫に比べて、種類別で商品化されているものがかなり多いことがわかる。やはり柴犬がかなりの人気だが、レトリバー、パグ、トイプードルなども20以上商品が売られている。

比べて、猫のカレンダーは精々マンチカンが20商品あるだけで、ペルシャメインクーンベンガルなどペットショップで人気な猫ちゃんたちのカレンダーは売られてすらいなかった。

このことからもやはり、犬好きと猫好きの犬猫に対する捉え方の違いがあることがわかる。これが犬のグッズより猫のグッズの方が売れている理由である。

犬グッズより猫グッズのほうが需要が大きいと言えるだろう。

 

 

 

以上2つの理由から、

〝猫は可愛い〟

ということが分かってもらえたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

これで終われたらいいのだけれどそういう訳にもいかないので、きちんとまとめよう。

1つ目が、猫モチーフのグッズは低コストで作ることができる、という供給からの面。

2つ目が、猫モチーフのグッズは犬のそれよりもよく売れる、という需要からの面。

共通する理由としては猫の姿かたちは種類が違っても大きく変わることがないことにある。犬は体の大きさや顔立ちから何まで種類が違うと全く別個の生き物のように違ってくる。これがグッズの数に響いてきていると思う。

 

 

 

以上、これは私が1回生の時にしたプレゼンである。スライドが無い程度で、流れも殆どこのような感じで進めた。学生からの反応はイマイチだったけど、先生からの反応はかなり良かった。この授業は5回程度の欠席で不可(単位が取れない)になる授業だったけれど、私は5回欠席して60分遅刻を2回、10分遅刻を1回した。終わったな、って思ってたけどいざ成績を見てみれば、なんと1番評価の高い「秀」がついていた。意味が分からない。先生に大感謝である。「大学」という場所の自由さを感じた。

名作を読む意味

―――世界は全てひとつの舞台、人は皆役者―――

Shakespeare

 

こういう感じで始まる小説やブログ記事よくあるよね。これはシェイクスピアの「お気に召すまま」の中のジェイクイズという変な男のセリフです。

こういうような名作の1文がさらりと出てくると格好良い。というか、こういうのを書いてる小説家やブロガーが必死に「名作 文章」とかって検索してたら本当に悲しい。

 

名作を読む意味は、そこにあると私は思う。むしろそれぐらいしか思いつかない。

私は基本的に「意味のある読書」「意味を求める読書」が大嫌いである。そんなもん求めて本なんか読むな!って思っている。

それでもしょっちゅう、本を読む意味を尋ねられる。私もそれで一生懸命考えた。そこで1つ思い付いた。そう、名作を引用する力、である。

 

もうね、ああいう名作の一文はことわざぐらいの立ち位置になってきていると思う。いいタイミングですっとそんな引用をされると「あらこの子」と一目置かれること間違いなし。(知らんけど)

 

名作というのは面白くて何十年何百年と多くの人に愛されてきた作品である。つまり、マジョリティに受け入れられる意見なのだ。

だから太宰治人間失格を読んでサブカルぶってる人間はダメだ。あれはマジョリティだ。サブカルを舐めるな。

 

兎にも角にも、名作には現代の私たち社会にも呼応する文章が多くある。

例えば、哲学者カントの「永遠平和のために」にこんな一文がある。

「人々は限られた土地の中で、互いに我慢し合わなくてはならない。」

なんかもうめちゃめちゃ悲しい顔になっちゃうんだけど、これってかなり現実だな〜って思う。色んな場面でこの文章の力は発揮される。現代の社会にもごく普通に通用する言葉だと思う。

 

坂口安吾堕落論なんかも使える場面があるかもしれない。「生きよ、堕ちよ」とか。「人間だから堕ちるのであり、生きてるから堕ちるだけだ。だが永遠に堕ちぬくことはできないだろう」とか。厨二病の人が嬉しそうにブログの冒頭に書いてる様子が目に浮かぶ。

 

でもまあやっぱり引用に向いてる文章といえば、私も冒頭に書いたシェイクスピアじゃないだろうか。あれくらい時代が前になっても、今通用するというのは人間の本質に触れた文章だからだ。何より数があるし、戯曲だからセリフとして完璧で覚えやすい。今試しに「シェイクスピア」とだけ検索をかけたら、出てくる出てくる。名言の嵐である。みんなも困ったらシェイクスピアで検索かけるんだぞ。

あれ? ということはシェイクスピア作品を読まなくても名言集だけ見ていれば良くなってしまった。所詮本を読む意味などないのだろう。

勉学は娯楽を楽しむためにある

娯楽を楽しむためには、勉強が必要である。

なくても楽しめるかもしれないけれど、知識の量は娯楽の楽しみ度を大きく動かす。

 

少し前、「パドマーワト」という映画を見た。インドの映画で、500年前に生み出されたインド古来の伝記がモチーフになっている。

舞台はデリー・スルタン朝時代の、13世紀ハルジー朝の頃である。ハルジーのスルタンであるアラーウッディーンに敗れたメーワール王国の王妃が主人公だ。

 

さてここまでのあらすじを読んで、世界史の知識がある方は思うところがあるだろう。

逆になにも知らない方はどうだろうか。何か知らないカタカナがたくさん並んでいるように思われるかもしれない。

私は高校の時世界史選択だった。だから私はデリー・スルタン朝、と聞いて「北インド」「イスラム」「五代王朝」というキーワードを思い出す。デリーは北インドの都市であること、スルタンというのはイスラム教国の支配者を指すことも知っている。デリー・スルタン朝五代王朝は、奴隷、ハルジー、トゥグルク、サイイド、ロディー、の順番である。これは受験期に何度も唱えた。

映画で敵とされるアラーウッディーンも教科書に載っていた。ハルジー朝の第3代スルタンで第2のアレクサンドロスと呼ばれる男である。

また映画の中で、メーワール王国側では「ラージプートは諦めない、ラージプートは負けない」と鼓舞する言葉がよく出るが、このラージプートというのも世界史の授業を受けていればなんのなしに分かる言葉である。

しかしこの映画を見ている時、私にとっては面白いけど、なにも知識のない人はこれを面白いと思うのだろうかと何度も不安に思った。

ラージプートが民族の総称だと分かるのだろうか。映画の始まる前に出た「サティ(寡婦遵守)を推奨するものではありません」という文言も意味をきちんと理解出来るのだろうか。

同様に、自分自身の知識の少なさも顕になった。知らない土地の名前や地域のお祭り、文化の表現もたくさんあった。

「サティ」は分かっているつもりだったが、後で調べてみるとサティは白檀の薪を使う、とあった。映画では、主人公らを裏切る僧侶の香りが白檀である、という表現が何度もされていた。これはきっとサティとの関連があったのかもしれない。自分の知識の甘さを恥じたし、そのように自分が気づかなかっただけで、他にも伏線が隠されていたかもしれないと思うと、100%この映画を楽しめたとは言えない。

 

数ヶ月前、Twitterでこんな漫画がバズった。

https://twitter.com/riko3_/status/1119429228062101504?s=21

私はこの漫画を読んで最初に思ったのは、勉強しなかったら勉強の意味もこの程度に収まってしまうものなのか、というなんとも皮肉な感想である。私自身上から言えるほどの知識は持ち合わせていないが、そんな単純な直結することだけにしか結びつかせることが出来ないほどではない。実際はもっと複雑に綿密に勉学は生きていく上で形を変えて絡みついてくるものである。

 

私は私に知識が足りてないことを知っている。ソクラテスの唱えた無知の知、である。これは森羅万象どのようなことでも言える。

例えば、私の友人でピアノをとても上手く弾く子がいる。しかし彼女にピアノ弾くの上手いね、と言ったら、苦い顔をされた。彼女はピアノを習っているからこそ、上には上がいることを知っていて、自分の能力を上と比べて評価しているのだ。逆に私はピアノなんて縁のない人生を歩んできたから、ピアノが弾けるだけで十分凄いと思ってしまう。でも、彼女にとってはそうではない。私はピアノに対して単に無知で、彼女は彼女の無知を、まだまだ上が存在することを知っている。

私はまだまだ無知である。

 

海外ドラマを見ていて、意地の悪く男勝りな女性を「イギリス版マクベス夫人だ」と揶揄するシーンがあった。

マクベス夫人を知らなければスルーして、そのままドラマを続けて見てなんの問題もないシーンである。しかしここで「マクベス夫人」を知っているとクスッと笑える。マクベスデンマークのお話でシェイクスピアの4大悲劇のひとつだ。夫人はなかなかに恐ろしい女性で、でも少し可哀想な女性だ。イギリス版、とわざわざ言うが著者はイギリス人というのもなんだかおかしい。

 

知識は娯楽を豊かにするし、会話を豊かにする。同じコンテンツでも受け取る人によって楽しさの度合いが違ってくる、ということはとても悲しいけれどそれが事実。知識がなければ「楽しいこと」が減ってしまうのだ。頭の弱そうなヤンキーのインスタグラムを見てみなさい、みんなどこもかしこも同じような遊び方しかしてないでしょう。

勉強そのものを楽しいと思える力も重要だが、勉強して学んだことを関連させる能力も同様に必要である。そうして関連させることが日常的になれば、なんと勉強の復習になっている。勉学とはこうして身につけていくものだった筈なのに。

 

完全食compの可能性

朝はなにも喉に通らない。少しでも寝ていたいので時間もない。低血圧が私の頭を働かせまいと躍起になる。でも一限の日は7時過ぎには家を出なくちゃいけない。何も食べないまま満員電車に乗り込む。くらくらしてくる。学校に辿り着けぬまま電車を降りる。そんな私の毎日である。

しかもこれからやってくるのは夏。あっつい上に朝一番で固形物を摂取するのはかなりハードだ。

 

対策を考える。そこでみつけたのが「完全栄養食comp」である。「完全」栄養食、だ。SFか?生きていくために必要な栄養素をすべて含んでいて、これさえ摂取しておけば死にはしない、机上論ではあるがこういうことである。

ーーー「食事」は消えた。食への興味を全人類が失った世界でただ1人「料理」をし続ける男、ある時未だに鋭敏な味覚を持つ女と出会う。しかしこの世から「食事」が消えた裏にはあまりに大きな組織の闇が潜んでいて……みたいな物語が現実に生まれそうだ。この話は私の創作です。

すべての栄養素を含むcomp、そのまま飲めるドリンクタイプ、なにかに溶かして飲むパウダータイプ、そのまま食べるグミタイプの3種類があって、トライアルパックとしてパウダータイプ3袋、グミが2袋がセットになって売られていた。送料込で1500円である。

 

私はこれを購入した。そこまで「食事」に重きを置いているほうでもないし、なんなら「腹がならないためにご飯を食べる」みたいなスタンスだから、compのような完全食は私向きかも、と思った。朝ごはんはcompパウダータイプに置き換え、午前中のおやつとしてグミをもぐもぐする、というのが理想案だ。

 

届いたのは金曜日。土日はバイトで朝が遅いので月曜まで待って、朝ごはんに飲んでみることにした。

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写真をすっかり撮り忘れたので公式サイトからのスクショである。

パウダータイプをとりあえず3分の1くらい水で割ってみる。割合が悪いのか混ぜ方が悪いのか、粉っぽくて美味しくない。ネットを見るとココアとかオレンジジュースが良いとある。冷蔵庫を開ける。ない。普段家でジュース類を飲むことはないので、お茶(葉)と紅茶(葉)とコーヒー(粉)しかない。辛うじて牛乳があったので混ぜてみる。不味くはない。美味しくも、ない。もったりしている。やっぱり粉っぽい。プロテインとかも飲んだことがないので混ぜ方がわからない。家にシェイカーもない。なんならスプーンも三本くらいしかない。ルフィがついてるスプーンで頑張って混ぜる。粉っぽいしダマができる。でも他に飲み物もないので全部牛乳で割って飲んだ。意外と腹にたまる。

 

学校でグミタイプを食べることにした。

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袋を開けると謎の香り。友達に袋を回す。みんな嗅いで、歪んた顔をする。形容し難い、妙な香り。食べてみる。これまた形容し難い、妙な味。フルーツ風味の底にタンパク質のパンチが効いてる。舌は甘味を感じてるのに口内は甘くない変な香りが込み上げる。これは猫の餌の香りと似ている……?正直、美味しくはない。UHA味覚糖との共同開発らしいので味にも期待していたけど私は苦手だった。匂いを嗅がないようにしながら少し咀嚼してお茶で流し込んだ。

 

2日目。ネットで見た情報ではパウダータイプに「午後ティーのミルクティ」が良いとあったので買ってきた。なんかミルク多めで微糖のやつ。三分の一くらいをコップに入れて、粉をパックの半分ぐらいで混ぜる。飲む。なんと、とても美味しい。これは最適解の1つではないだろうか。めちゃめちゃに美味い。ミルクたっぷりの甘い紅茶だ。相変らず混ぜ方が下手なのでダマがすごいが、美味さがその不快感を上回っている。メイクしながら片手にぐびぐび飲む。もう半分の粉もミルクティーにぶち込んで飲んでしまった。つまり粉1袋を紅茶360mlくらいで割った感じだ。

一限なのでラッシュに巻き込まれ満員電車で1時間立ちっぱなしだったが、普段より随分気分がマシだった。

 

10時頃に軽くお腹が空いたのでグミを食べる。香りがやはり猫の餌。でも確かに猫ちゃんって毎日同じカリカリご飯を食べているわけだし、猫にとってあれは「完全食」なのか。猫ちゃんが生きていくために必要な栄養素と人間に必要な栄養素は大体同じようなもんだろうし、匂いが似るのも分かる気がする。2日目になるとだんだんこのグミにも慣れてきた。それに私はうちの猫の餌をたまに横取りして食うので、そういうもんだと思えば全然問題ない。

 

3日目。無加糖のりんごジュースにパウダーを混ぜることにした。飲む。これは、「アップルパイ」だ。飲むアップルパイだ!完全に味がアップルパイである。りんごジュースではない。アップルパイなのである。無論、美味しい。これもまた最適解のひとつである。残した粉の3分の1くらいを無印の白桃グリーンティーに混ぜたが、特に書くべきことはない味だった。水と変わらん。

学校についてから10時半ごろにグミを食べる。独特な匂いにも慣れたが、これを1袋1食として食べるのはキツイだろう。まだひと袋目を半分ほどしか食べてない。

 

さて、こういうわけで三日間を終えた。体の変化は良くも悪くも特にない。まあ三日間朝ごはんを変えただけなのでそんなに大きな変化はないだろう。不備がないことが判明したとも言えるので十分に合格点だ。

 

毎日毎食完全食、というわけではなく、私のように平日の朝ごはんを置き換えたり、仕事などが忙しい期間だけ完全食にしたり、そういう方法でもっと活用し、もっと完全食は主流になるだろう。課題は手に入れる方法を簡単にすることとお値段をもう少し抑えること、あと味をもう少し……といったぐらいだろうか。コンビニとかに置いてあったら、時間のない時にパッと買えて便利だろうと思う。

 

あと、完全食は災害時絶対に役立つ。

compのドリンクタイプは常温で半年持つし、蓋を開けて飲むだけで栄養を摂取することができる。歯のないおじいちゃんおばあちゃんも飲める。グミタイプは一年半賞味期限があり、これまた食べるだけで栄養摂取が可能、パウダータイプもなにか混ぜる液体さえあれば災害時に便利なことこの上ない。お湯を沸かせなくても、電子レンジがなくても、飲めるし食べられる。防災食に持って来いだ。是非防災食としてもっと賞味期限を伸ばした商品を別に売って欲しい。compの防災バッグを売ろう。

 

私はとりあえずもう一度パウダータイプを買ってみようかなと思っている。毎朝ではなくても、寝坊した日の朝に「何も食べない」という選択肢より「compを飲む」という選択肢のほうが圧倒的に良い。それに、電車でパンを食べるのは勇気がいるけど、飲むことなら容易である。

 

compの公式サイトhttp://www.comp.jp/index.html

シェアハウスをいつかしたい

至る所で私は「いつかシェアハウスをしたい」 という話をしている。

私は多分結婚しない(できない)。つまりこのまま私より先に両親が死んだら、兄弟も従兄弟もいないので本当にひとりぼっちになってしまうのである。

私はまだ19だというのに、1人でおばさんになってただ淡々と暮らしている私を想像し、さらにその先、自身の孤独死を恐れている。

 

「シェアハウス」とは言うが、私がしたいのは正確には所謂な「シェアハウス」ではない。言うなれば、「共有スペースがあるアパート」の大家になりたいのである。

私は集団行動が大の苦手である。集団行動が苦手じゃないフリをするのは大の得意だ。でも、長年暮らしていくとなるとそんな演技を続けていく訳には行かない。

だから個人のスペースはそれなりの大きさが必須だ。6畳〜8畳くらいの。ベッド置いて、本棚と机置いて、服をしまえるクローゼットがあったら、十二分に生きていける。

キッチンとかお風呂とかは共同で、その近くに住人なら誰でもダラダラできるスペースが欲しい。みんなが気軽に来れて、個人の部屋に帰らないでずっと入り浸ってる人もいたりして。そこに行けば「ひとりじゃない」ということを実感できる部屋が欲しいのである。

ホームシアターを作って、たまにみんなでお菓子食べながら映画見て、寒くなったらこたつを出してみかんを食べよう。でっかいソファーを置いて、横になってもいいし床に座って背もたれにしてゲームをしてもいい。

それから中庭か、もしくは屋上にテラスを作って、夏になったらバーベーキューをしたい。お互い友達を呼んで交友関係広げて仲良くなったり。あと夏なら花火もしなきゃいけない。テラスで手持ち花火だけでもしよう。

 

みんながみんな特別仲のいい友人にならなくてもいい。困った時は助け合える「お隣さん」になりたいのだ。ちょっと駅前まで車を出してほしい、とか、実家から大量の野菜が送られてきたから消費に手伝ってほしい、とか、コミケで売り子をしてほしい、とか。その程度でも、それなりの都会で普通の一人暮らしではなかなか機会がなくて難しいだろう。

 

ひとりぼっちで生きるのは、可能だろうけど寂しい。今は友達もそこそこいて、みんな私と遊んでくれる。でも、その友達が誰かと結婚して家族ができたら?

私よりうんと大切なものが出来てしまったら多分、遊んでくれなくなるだろう。私だけ1人取り残されるのは悲しい。でも、そうして取り残されてしまう人は私だけじゃないはずだ。本当に1人の方が生きやすい人もいるだろうけれど、そうじゃない「ひとり」の人が集まれる場所がほしい。

 

よくあるシェアハウスだと、私は息が詰まってそのうち死んでしまう。寝食をずっと他人とともに、なんて考えられない。家族で限界だ。それに、あまりに距離感が近すぎると必ず人間関係の揉め事が起きる。所詮は他人なのだ。

私は私流のシェアハウスを、「仲良しのご近所」を作りたい。とりあえず大学を出て働いてお金を貯めて、周りが家庭を持ち始めた頃合に、と思っている。入居者、募集しております。

 

読書は人生に必要じゃない

なにをどう血迷ったのか、私は大学で司書資格の取得を目指す司書課程の授業を取った。あたりは文学部の女の子まみれ。私以外の大体は多少顔見知り。私だけバカみたいな金髪。私だけ経営学部。

 

せっかく大学生で暇してて、いつでも勉強できる環境にいるわけである。なにか資格でも取るか〜と思った次第で、目に付いて興味を持ったのが司書だった。蓋を開けてみると、なんともまあ大量の授業、授業、授業。しかも卒業単位にならない。知り合いの司書資格を持ってる高校教師に愚痴ったら、司書課程はそんなもんよ、と言われてしまった。履修登録の前に聞きたかった。まあでも、資格なんて持ってて損があるものではない。取れるもんなら取っておけばいいじゃないか、という気持ちで毎日講義を受けている。今のところ1度も休んでいない!偉い!まだ4月!

 

さて、そういうわけで「社会一般の持つ読書への意識」なるものを考え始めた。

私はなかなかの活字中毒で、小さい時からずっとずっと本を読み続けている。小学生の時は、友人でも同じように本好きの子が多くいて、趣味は読書、が女子の4割は定番だった。でも、中学、高校、となってくるとそういう本好きの子は随分減った。みんな口を揃えて「読む時間がない」と言っていた。当の私も確かに、小学生のころに比べたら読書の時間は減っていて、でもTwitterする時間はたくさん持っていた。

小学生の時分には娯楽の種類が少なくて、外で体を動かすことを好まない人種にとっては「読書」ぐらいが丁度いい娯楽だった。でも成長するにつれてそれ以外の娯楽にも目を向けるようになり、そして読書より楽に受容可能な娯楽へと移って行ったのである。

 

そしていつの間にか、「読書」という趣味は高潔で堅苦しいようなイメージがついていく。特に、小さい時も本を読んでいなかった人種による固定観念だ。「読書」はだんだん「勉強」のようになっていく。本を読む人は頭がいい?そんなことあるわけない。私を見てみろ。

 

「読書」というのは、娯楽のひとつである。趣味のひとつである。勉学に通ずるものがあるというだけで、それ自体は決して勉学ではない。本なんて読まなくったって、十分立派な人生が送れる。心身ともに健康なら、わざわざ本を読む必要はどこにもない。不健康だから読むのだ。自身の精神に欠陥があるから読むのだ。現実世界に居場所がないから読むのだ。自分の砦を保つために、本を読むのだ。

 

「読書」はほかの何かで代替がきく。人間が欲しがる刺激の絶対量みたいなものがあって、それを読書で埋めてもいい、というだけのことだ。映画を見ることで埋めてもいい、体を動かすことや恋愛とか友達とバカやるとかでもいい。そういう日常の中に潜むほんの小さな非日常を、私たちは潜在的に求めている。ただその絶対量が人より多かったり、読書でしか埋められない刺激だったり、ほかの刺激が圧倒的に少なくて足りなかったり、そういう人が本を読む。

 

「読書 効果」で検索してみると、語彙が増えるとか見える世界の広がりとか教養がどうのこうのとか色々出てきた。

確かに、一理はあるかもしれない。でも、それ自体人生に必要だろうか。語彙力がなくても生きていけるし見える世界が広がらなくても普通だし教養なんて他のことで補える。もちろん、あるに越したことはないけれど。

 

私が本から得たものはとても大きい。しかしそれは人生において何千時間だろうか。本にかけた時間は私の人生のとんでもない面積を取っているはずである。その時間を他のことにまわしていたら、また別のものから何かしら得たであろう。そして、その存在したかもしれない「本を読まなかった私」は今の私とは全くの別人だ。今の私を構成しているのは、今まで出会ってきた本たちがかなりの割合を占めているからである。

もしこの世のどこかに、私が今まで読んだ本全て、1つと欠けず1つと増えず、それらを私と同様に読んだ人間がいるならばその人と私はほぼほぼ同一人物といっても過言じゃないんじゃないだろうか。いやさすがに過言かもしれない。

 

読書は人生に必要じゃない、というのはあくまで、たくさんの本を読んで、本を読むのが好きで、きっとこれからも色んな本を読むであろう私が、言う言葉である。

生きるためには人生に必要なことだけしてたらいい、なんてことは多分、誰も考えていない。そんな退廃的に生きるなら死んでるのと一緒だ。今の日本は戦争もなくて特別貧乏ってわけでもなくて、色んな娯楽を楽しめる時代。みんなが好きな物を好きなように使って楽しめばいい。

最初から「意味」を求めて行う読書は、正直、個人的には、好かない。実用書とかは除いて。

「時間は有限だから意味のないことはしない」というのもご立派ではあるが、無意味な行動がのちのち、意味を持つようになることもある。

教養を身につけようと本を読んだって一朝一夕で身に付くもんじゃない。でも長年、ただ無意味に文学に触れている人はいつの間にか、教養が身に付いているだろう。

「意味があるから本を読む人」と「無意味に本を読んでいる人」には天と地ほどの差がある。どっちが天でどっちが地かはわからない。

 

ともかく「読書」とは、必要に迫られてするものではないのである。娯楽なのだから。

 

ジャニオタじゃないけどジャニーズ映画の「少年たち」を見た。

所狭しと出演する、顔の綺麗な、でも幼さの残るまさに「少年たち」。ジャニーズJrの子達ばかりが多く出演しており、正直ジャニオタ以外がこの映画を見るのだろうかと疑問である。そんな中で私はジャニオタではない。のに、見てきた。

そんな私の感想としてこの映画は、「長いミュージックビデオ」である。

 

見に行く前に軽く調べたり聞いたりしたところでは、なんとなくミュージカルなんだろうなと思っていた。しかしこれはミュージカルではない。「長いミュージックビデオ」である。

内容は一貫してよく分からない。ストーリー性があることにはあるが、何故?とばかり思う。見終わって1番に口から「え?」と音が出た。とりあえず「死」が唐突すぎる。何故死ぬ?死ぬ描写があまりにも薄い。薄すぎる。わからなかった。なんの暗喩だろうかと考え込んでしまった。

いわゆるミュージカルも同様に、急に歌ったり踊ったりはあるのだけれど、やっぱり何か違う。そこで歌う!!!????って何回も思った。あとめちゃめちゃ面白かったのが、黒チームの体の弱い男の子が医療刑務所に1人、ベッドに横になっているシーンの後にやたらめったらハッピーな曲に変わった時。急にくるにも程がある。笑っていいのかあかんのか終始わからんかった。

 

そして何より、私は応援上映に行ったのである。ジャニオタでもないのに。ジュニアの子達なんてほとんど名前も知らないのに。横では私を連れてきた女が、推しが出てくると狂ったように叫び喚き、後ろの方でも若い女の子の甲高い声が時たま鳴り響いていた。田舎なので客は少なく、ペンライトはまばらに、でも同じテンポで劇場を照らす。正直楽しかった。なんて幸せな女の子達だろうかと思った。何回も見ているからだろう、行進のシーンの時に画面より先に「左!、左!、左!右!」と多くの声が上がっていた。もう私は笑いが止まらなかった。

同担拒否の友人が叫ぶ推しの名前が、後ろの方からも聞こえた時はさすがにひやっとしたが。映画が終わってから友人が後ろの方を見て、「今のうちに……」と殺し屋の目をして言っていたので恐ろしくなってさすがに止めた。

 

1晩経って考えてみたけれど、私は一体なにを見たのだろう。あれは映画だったのだろうか。いややはりあれは「長いミュージックビデオ」なのだ。きっとそうだ。とにかくみんな顔が綺麗だった。お肌が若くてツルツルもちもちだった。せっかくの機会だし、何人か名前覚えてみるかなどと思ったけれど大河くんしかもう覚えていない。京さまの息子と知って驚いた。道理で私の好きな顔をしているわけだなぁ、と思った。

 

ジャニオタじゃないと楽しめないんじゃないかってちょっと思ってたけどそれは間違いだった。普通に面白かった。よくわからないことが面白かった。正直、中高生の男の子や下手すると小学生の子達にまでゾッコンになる友人が今までよくわからなかったけど、「こういうもの」なんだろうなってよくわからないままに納得した。宝塚のファンと同じ分類にジュニアのオタクも入れておくことにする。

ジュニアのオタクじゃないんなら、「少年たち」は見なくてもぜーんぜん問題ない映画である。でも見てもいいんじゃない、とは言える。

「映画」という媒体はなんとも、大きくて広くてなんて寛容だろう。